9年間の受験を振り返って

                        2009
1122日  新 みすず 

枚方市に住んでいます、今年9月で24歳になります。生まれながらの知的障害を持ちます。
 地域の保育所に入所し、地域の小学校そして中学校を地域の子供達と共に育ってきました。
 学校生活は、支援学級には在籍せず、クラスで過ごしました。当然読み書き数学等全く分からす、授業内容は多分先生は、外国語を話しているような感じで退屈だったと思います。
 授業中大声で泣き授業妨害をするのは日常茶飯事です。しかし娘のクラスの子は集中力がスゴ〜クUPするようで、娘が静かにしているとき授業に集中するらしいです。またクラスに授業を潰す行為をする子がいてはしゃぐと娘は落ち着かなくなり、泣き出すので、いつも娘のいるクラスは静かに授業が出来ると先生は喜ばれるぐらいです。娘はお荷物ではなくしっかりクラスに役立っているようです。また娘は出来ないことは一杯ありますが、クラスメートが助けてくれて学校生活を楽しんでいました。それは自然な事なんです。娘は一人では、何も出来ません。誰かの支えが必要なんです。 生涯・・・・・。
 娘にとって、地域の高校生になることは、お友達の輪を沢山作り、地域で生きていくための輪を作るため又クラスの子供達が当たり前のように高校になるように、当然娘も高校生活を送らせてやりたいという想いがありました。中学に入ると同時に高校受験を中学校に宣言していました。だからと言って、受験勉強をさせていた訳ではありません。娘は点数よりももっと大切なものを、周りの人に与える力があるのだから、0点でも高校へ行くんだ、なんて思っていました。
 中学三年の時、ホームルームで、「何故娘が、障害を持っていても普通高校へ行くのか。」という思いを話しました。すると数人のクラスメートは、家で親が話したことを話していたようです。道で出会った保護者の方が励ましてくださったこともありましたい。有難いものです。 担任も親子の思いを、クラスの子供達に時々話していただいていたようです。 娘にとっては、障害があるなし関係なくお友達が高校へ行くのと同じように高校へ行くのは、当たり前なんです。
 
★2001年度 調査研究校ができました。

初めての受験です。まず高校に慣れるため、体育祭、文化祭は親子で見学にいきました。又長尾高校の方には、保護者も中学校の校長も度々足を運び、高校へ入れるように伝えていただいていました。

府教委の学事課と高校側と中学校の校長、担任と当事者と保護者で受験に向けての話し合いがあった日、クラスの友達は担任に内緒で“何故娘が高校生活が必要なのか?中学時代のすごし方等”嘆願書のような作文にして長尾高校の校長先生に渡してくれていました。しかしながら、あっさりと懇談の時返されてしまいました。この時共に育った仲間に支えられていることを実感し、これが共育、共生だと思いました。受験は別室で初めてとあってとても緊張していたようです。娘は紙を破るので問題用紙、答案用紙は数枚用紙してもらいました。緊張の中でも頑張ったのですが、しかしながら、定員オーバーで不合格になりました。

(介助者は、担任です)

四条畷の定時制を受験しました。受験の時長尾高校より好意的だったんですが。残念ながら定員内不合格でした。

★2002年度 

再度の挑戦です。長尾高校は受験生と募集人員が同じなため本人も中学校も合格だと思っていました。一年遅れでも高校生になれるぞーと意気込んでいました。同級生の保護者の方から今年は合格できてよかったね。と言われましたが、合格発表日、何故か娘の番号だけありませんでした。何度も見直し我が目を疑いました。何度見直しても無いのです。意味があまり分からない娘も何か異常を感じたようです。受験の介助者である中学校の担任と共に高校の校長に会いに行き不合格の理由をききました。“最低ラインで合格した生徒と娘の点数の差が著しい事が不合格”の理由でした。娘は0点です。校長先生曰く「点数が取れていたなら合格できたのに…………」この定員内不合格については、府教委にも相談した結果とのことです。

今回も不合格のため四条畷の定時制を受験しましたが、定員内不合格でした。点が取れなかったためです。(介助者は、元担任です)

★2003年度 この年より入試方法が変わり前期と後期にわかれました。そして普通科は、全日制も定時制も同日日となり定時制は受験できなくなりました。

 この年は、長尾高校は定員、1名オーバーで娘だけ不合格でした。(介助者は、中学のとき関わった先生、元担任は転勤したため)


★2004年 娘は思春期で常にパニックを起こします、受験日は、時々大きな声で泣いていたようです。当然問題用紙も答案用紙も破っていました。定員オーバーで不合格でした。(介助者は、中学のとき関わった先生)

★2005年度
 受験中一日泣いていたようです。校舎に泣き声が轟き渡っていたようです。定員オーバーで不合格でした。
 (介助者は、中学のとき関わった先生)

★2006年度 自立支援コースが出来ました。 しかし過年度生は受験できません。静かに受験に望みました。定員オーバーで不合格でした。
(介助者は、中学のとき関わった先生)

★2007年度 凄く大人しく受験したようですが。帰宅したとき熱が39度近くありました。

  しんどいと伝えられなかったようです。熱を出しても頑張りましたが、定員オーバーで不合格でした。

 (中学で関わっていただいた先生方が転勤でおられなくなり、介助者は、いつも関わっているヘルパーにたのみました。その為この年より中学校は全く関らなくなり、枚方市教育委員会が府教委と保護者の仲渡しを中学校の代わりにするようになりました。)


★2008年度 静かな受験のようでした。しかし受験生と自分との年齢の差をなんとなく感じたようです。定員オーバーで不合格でした。
 (介助者は、しよう会のメンバーの方にたのみました。)


★2009年度 府教委の学事課と高校関係者と市教育委員会と介助者と当事者の保護者との受験に向けての話し合いのとき何故高校へ行きたいのかと言う本人と保護者の気持ちを書いた文章を関係者に渡しました。9回も受験していると、高校側も府教委側も馴れ合いのような気がして、この受験日が終わったら終わりと言うか、一年の恒例行事のように感じているような気がしてなりません。

 定員オーバーで不合格でした。(介助者は、しよう会のメンバーの方にたのみました。)

受験に向けての4者関係の懇談は、しよう会を通じて自己申請書を提出しているため、最初の受験からおこなっていました。懇談場所はいつも受験校の高校です。
 受験上の配慮は、
   別室受験
   意思伝達のため介助者をつける。
   試験中、教室より出ても試験放棄と見なさない。
   (近年は、高校の敷地内から出なければ良いといわれました。)
   問題用紙と解答用紙が同じ(2005年度より認められる)
   問題用紙は破るので各教科5部程度余分に用意。
   監督に、一人は、女性の先生をお願いする。(威圧感がなく、また   トイレ介助のため)

 この9年間受験して感じたことは、最初は出身中学の先生が介助者として入って頂きましたが回を重ねるごとに、娘の知っている先生は転勤されたり、退職されたりしてだんだん介助に入っていただく先生がおられなくなり、受験要項には、介助者は出身中学校の先生と記されているため、介助者に苦労しました。府教委との協議の結果、卒業してだいぶ年月が立っているため、やっと出身中学の先生でなくても良いと言われヘルパーさんにお願いしましたが、今度 中学の教師が介助ではなくなると、中学校側は願書関係の書類以外はタッチしなくなりました。卒業生がまだ進路も決まっていないのになんで手を引くねん。進路が決まるまで付き合ってもいいのと違うかと心の中で叫んだものです。回数を重ねる事に、娘の受験番号を見る度、やはり不合格やなという思いとなんでやねんと言う悔しさが入り混じりもんもんとした気持ちになります。

 受験は、最初は重圧な雰囲気の中での受験ですが、回を重ねるごとに監督者も慣れてこられたのか、監督者とお喋りをしたり、娘のやりたい事をやらしてもらい和やかなムードのようです。
 筆記用具以外の物が入っていた時がありましが、何もいわれませんでした。
 何度も受験を繰り返すと、監督の先生方も娘が分かるようで、とても和やかな受験となります。

高校生活もおなじではないでしょうか。最初戸惑いはあり、ハプニングもあるでしょうが、共に過ごすことで、お互い理解しあい助け合う気持ちが生まれ楽しい高校生活が送れると思います。高校や府教委の先生方は、この受験の時の体験をなぜ現場に持ち込もうとはされないのでしょうか。
 知的障害があってもそれは、娘の一部の個性なのです。知的障害がある故に点数が取れないのです。知的障害があっても点数が取れなくてもいいではありませんか。それ以上にもっと大切なものを生徒同士育むと思います。
 今年こそ高校生になって、今までの人生を取り戻したいものです。高校生になる壁はとても分厚いですが、娘の気持ちのほうがもっと大きいと思います。
 是非今年こそ高校生になりたいものです。10回目のチャレンジです。