北口昌弘さん、山本恵三さんを偲ぶ 悼辞(2017.9.19更新)
                                                                松森 俊尚
大阪の障害者運動を切り拓き、牽引してきた二人の方が亡くなりました。立て続いたいきなりの訃報に今も何かしら力が抜けた日々を送っています。

 山本恵三さんは、現在49歳になる息子さんの地域の学校への就学闘争から、卒業後の生きる場づくりに取り組み、「共に学び、共に生きる」地域づくりを目指して亡くなる直前まで現場の活動を続けて来られました。
 私たちの定例会にも気さくに参加してくださり、時には「自転車できました」と言いながら、酸素チューブを鼻腔にさしたままのヘルメット姿で登場して、みんなの度肝を抜いたこともありました。
 若い教師から「障害児をどう支援したらいいのかわからない」と、「支援の仕方」を質問された時に、返事を返したという話が鮮やかによみがえってきます―
「私たち親は、障害児を生む準備をして出産したのではありません。産まれて障害児だと分かり、悩んだり、迷ったりしながら、見方を変えたり、生活の仕方を変えたりしてかかわってきました。先生たちも同じではないでしょうか。子どもと出会って初めて、その子のことが分かり、見方を変えたり、接し方が変わってゆくのだと思います。」
 あくまで居住する守口市にこだわり、地域に根差した運動を通して、大阪の障害者運動に大きな足跡を残してくださいました。
 告別式で息子さんが挨拶されました。「覚悟を決めた父は、筆談で、『読経は〇〇寺の住職に頼んで、連絡はこの人たちに。そこから次の人たちに広がるだろう』と連絡網を書き示しました。今日の葬儀は父がレイアウトしたものです」と。
 死してなお葬儀の会場から笑いを引き起こす豪放磊落さが、人々の心を開き、安心感を与えて、活動を進め広げていったのだと思いました。

北口昌弘さん、さようなら!
 北口昌弘さんが42歳で亡くなりました。昌弘さんと同志のように行動を共にしたお母さんが告別の挨拶で、「もっともっとやりたかったと思う」と述べられた言葉は、昌弘さんの魂を代弁したものだったでしょう。若い人が亡くなるのは特につらい。
 私の怠け癖は集会の場に足を向けることを遠ざけるのですが、少なくとも私が参加した集会にはいつもきまって北口さんの姿がありました。行政が主催するものでも、運動体が主催するものでも、個人の呼びかけでも、教育問題でも、日の丸・君が代問題でも、理論研究の場でも、生活相談でも、テーマがどれだけ広がっても、そこに一点「障害者の問題」が扱われていれば、必ず目を向け、可能な限り参加していました。
 いつも会場の中心に陣取り、いの一番に発言を求めます。からだから絞り出すような力を込めて、太い首と頑丈な声帯がなおさら音声を増幅させるかのように、野太い声で発言します。
 障害者が手を挙げるのですから司会は何をおいても指名してくれます。北口さんの発声する言葉の「聞き取りにくさ」が、なんといえばいいでしょうか「丁度いい分かりにくさ」で、返って聴衆の耳を惹きつけるかのようでした。
 障害者の発言に聞き手は緊張します。その声音の分かりにくさに身を乗り出します。そして言葉が理解できた時ほっと安心して、うれしくもなり、さらに身を乗り出して聞きたくなってきます。いつの間にか北口さんの話に頷きながら聞き入ってしまいます。術中にはまったかのように。したたかに障害を使いこなして語る、天性の話術を持っていると思ったものでした。それほど北口さんにはなんとしてでも伝えたいことがあったのです。
 北摂や北河内で、障害者の学校生活や高校入試の問題を話し合う学習会では、いつも先頭を切った提案と行動をしてくれました。特に、これまでつながりの少なかった南大阪で学習会を開催し、参加した一人ひとりの障害者や保護者と丁寧に時間をかけて話し合い、付き合いながら、何人もの高校受験をする人たちをつくった行動は、まさにフロンティアでした。
 酒好きで、学習会の後の交流会には必ず付き合ってくれました。注文するのは生ビールの大ジョッキ。しっかり冷えたビールをストローでチュルチュルチュルと、一気に吸い上げる様はまわりの目をいつも驚かしました。その豪胆で、どこかおどけた姿に、私はいつも障害者運動の優れた闘志であり、オルガナイザーの才能をみていました。
 北口昌弘さん、あなたが集会の発言者に向かって「そうや」とか「差別や」と、鋭く突っ込みを入れる言葉が聞こえてきます。「分けたらあかん」「特別支援学校はいらん」「共に学び、共に生きる教育を」と、どこでも誰に対しても力を込めて訴え続けたあなたの野太い声が、ジンジンと今も耳に響きます。
 きっと「もっとやりたかった」という悔しさを、あなたの魂は発しているのでしょう。あなたのやりきれなかった悔しさの分、その思いはまわりの人たちに強く届くにちがいありません。あなたが一番届けたかったであろう若い障害者たちにも。
 大阪の若き障害者運動のリーダーの早すぎる死は、「早すぎる」という不条理な分だけ余計に強く、これからもメッセージを発信し続けることになるのではないでしょうか。