居住地交流に取り組んで                

                                                     大阪府立東寝屋川高等学校                                                    

  昨年度より、居住地交流という形で、寝屋川養護学校在籍の生徒2名が放課後来校するようになりました。まだまだ、始まったばかりでこれから育てていきたいと思っていますが、これまでの経過を報告致します。
1、東寝屋川高校では寝屋川養護学校(中等部)との交流を以前より行っていました。具体的には以下の通りです。

 @夏休みの前に、本校生から希望者を募って寝屋川養護学校の授業に参加する。
 A文化祭に寝屋川養護学校の生徒作品を展示する。
 B寝屋川養護学校のクリスマス会に本校から希望者が参加する。
  また、車椅子の生徒が在籍すると言うことで、1999.3にはエレベーターが設置され、難病生徒の出席日数・欠時数・単位認定etc.に対する配慮も経験しています。
2、2001年度、大阪府教育委員会が、知的障害児受け入れの調査研究校5校を立ち上げるに当たって府立高校全体に希望を打診しました。その際、本校では校長より応募する方向での提案が職員会議に出されました。校長は、以前に比べると地元集中の比率は減っているとは言え、寝屋川市内在住の生徒が多いことや、地元の中学との連携が緊密であること、寝屋川養護学校との交流の実績等をその根拠としていました。しかし、結局、職員会議では受け入れる状況にはないということで、調査研究校に名乗りを上げることについては否決されました。
 入試による振り分けに馴らされてしまっている高校現場は、知的障害者ともっとも遠いところといわざるを得ません。私たち自身が改めて自分自身の意識を洗い出し、見直す作業を迫られたのかも知れません。
3、そんな職員会議のあとしばらくして、寝屋川1中在籍の障害を持つ生徒3名が本校受験を希望しているということで、私自身は、保護者の方から直接その思いを聞かせて頂く機会を持つようになりました。9月初旬の中学生見学会にも参加され、地域の仲間と一緒に高校に行きたいという気持ちは、本校の職員にも確かに伝わっていたと思います。
  2002年度の入試に向けては、(結局受検は2名でした)受検に際しての配慮を保護者・寝屋川1中・東寝屋川高校・寝屋川市教委・大阪府教委間での検討を経て決めていきました。入試当日は、別室で中学校からの付添い教員同伴での受検でしたが、結果は不合格となりました。(不合格は5名でした。)
4、4月初め、保護者より交流の申し入れがありました。申し入れの動機は「中学校を卒業しても、また将来も、地域で生きていく障害者としては、共に育ってきた地域の子らとの交流を中学卒業で途絶えさせることなく、これからも持ち続けていきたい。」というものでした。東寝屋川高校の人権教育推進委員会では、ノーマライゼーションの観点からも当然受け止めるべきものとして、具体的な交流のあり方を含めて検討し職員会議に提案することとしました。
  但し、2名が共に寝屋川養護学校に在籍していることもあり、本校の一存で形態を定めることはできませんでした。(つまり、管理職を通した学校間の取り決めということになりました)寝屋川養護学校が既に義務制において実施している居住地交流の内部規定に沿う形で考えました。
 まず、職員会議提案前に各学年・各分掌から意見を集め、その様々な意見を踏まえて、提案を具体化するための話し合いに入りました。寝屋川養護学校側との協議、出身中学である寝屋川1中からの聞き取り等を踏まえて、ようやく9月26日の職員会議に提案、可決となりました。10/910/242回にわたる保護者・寝屋川養護学校・人推委・管理職の協議を経て実施の運びとなりました。
5、2002年度については3回の実施に終わりましたが、人推委として、次のように総括しました。「・・前略・・実施前はいろいろ危惧する意見もあったが、この3回については非常にスムーズであった。二人に出会った本校の生徒達の様子を見ていると、今後も継続していくことで、本校の生徒にとってこそ学ぶところ、得るものが大いにあると感じた。また、交流の際の本校側の付添いは、当面人推委のメンバーとしていたが、これも全職員に拡げることで、職員自身の、障害者と、障害者との共生についての理解が深まるものと確信している。
6、2003年度、2名は本校を再受験し不合格となりました。年度替わりと言うことで、また本校の管理職が校長、教頭どちらも替わったということもあり、改めての申し入れで居住地交流が再スタートしました。1学期中に3回実施しましたが、本校生で一緒に校内をまわるもの、部活動中を見に行くと活動の輪にごく自然に入れてしまうものがいます。妙な構えのある教員と違い、大半の生徒はごく自然体で受け止めているように思えます。今は夏休みに入り、仰々しく行列を作って校内をまわるのではなく、さりげなく「今日も来ているな」という感じで来校してもらっています。                                                                                                   
7、Sさん・S君と保護者から夏休み中も交流を続けたいという要望があり、交流日を調整しました。夏期休業中でもあり、付き添い教員の確保のために人推委1名と日直当番2名も付き添いに当たることになった。夏期休業中は15回予定し12回実施しました。
8、2学期は、夏期休業中の付き添い方法に倣って、付き添い教員については人推委1名と日直当番2名が付き添いに当たり3人で当番を組みましたが、付き添いの形態は、教員は職員室で待機し生徒と保護者で校内を回ってもらうこととしました。これによって付き添い教員の負担を減らし、交流の回数を増やすことが容易になりました。また本校の生徒とも自然に交流できるようになったように感じました。2学期の交流は8回であった。
9、3学期は、3年生が登校しなくなり校舎内もどことなく物寂しげな様子であったが、2年生が多数参加して、自然な交流になった。交流の回数は6回であった。
10、2年目ということもあり、当初は継続の2人に加えて高等部1年生1人が増える予定でしたが結果的には昨年度よりの2名の参加にとどまりました。
  回数は29回で昨年度より大幅に増えました。交流を重ねるごとに本校の生徒の中にも2人が来校することが日常であるという感覚が醸成され、自然な共生の意識が芽生えていったように思われます。今後も出来るだけ実施回数を維持していく方向で、教職員全体としての取り組みを継続したいと考えます。
2004年度2人は、もう一度東寝屋川高校を受験しました。
 「普通高校へ行きたい」という思いの底には、同じ地域で育ち、これからも同じ地域で生きていくはずの友達、とりわけ中学時代同じ学年であった友達が在籍している高校で、時間と空間を共にしたいという、とても自然な共生への願いがあります。その意味では最後のチャンスということで、今年度の受験に臨まれたことだと思います。
  過去2回の受験では、特別な配慮を求めてきました。けれども、それが結果としては他の受験生とは隔絶された受験となり、自然な共生とはかけ離れたものとなっていました。「一緒に高校へ行きたい」というのに「受験は別室で」というだけでなく、集合し受験所の注意を受けるのも別の場所というものであったわけです。言ってみれば、二人の受験は他の受験生の知るところとはならなかったのです。
  今年度、お二人の保護者は「あえて特別配慮を申し出ない。」という選択をされました。この気持ちを受け止めるべく、本校では学力検査に向けての準備の段階で、「受検生の体育館集合の際は受検番号どおりの列に入る、集合の際の様子で別室へ誘導する。」と、昨年までの「登校後すぐに別室に入る。」というものから変更することを決めました。
  結果として、S君は集合時、受検番号1番として第1室の先頭に並び受検上の注意を聴きました。筆箱をカタカタさせたりして受検は別室でという判断はされましたが、注意の間は列を離れることもなく受検票を示しなさいという場面では自分でカバンから取り出して提示することも出来ました。
  Sさんはとても残念なことですが、受検生の緊張した雰囲気を感じた為か集合場所の体育館に入ることが出来ませんでした。保護者の方と1中の先生、本校の教員がSさんに受検するよう促しましたが、本人の気持ちの強張りをほぐすことは出来ませんでした。
  この受験を通して、単に高校に入る、どこか定員割れするような学校はないかと考えて出願するというようなことではなく、地域の学校に地域の仲間と共に進学することの意義を改めて考えました。大阪府教育委員会が立ち上げた「調査研究校」でも最初の入学生が、この春卒業しそれぞれの進路に進んでいます。この実績を踏まえ「知的障害児の普通高校受け入れ」を早急に拡大するべきだと思いました。
  年度が改まり、居住地交流の再開・継続がスムーズに行われるかと思っていましたが、寝屋川養護学校の管理職の異動があったということで、なかなか連絡がうまくいきませんでした。管理職を通した学校間の交流という形の悪い面が出てしまったように思います。そんなわけで、1学期はS君の2回の来校に終わってしまいました。20日は1学期の終業式ですが、夏休み以降、昨年並み、あるいはそれ以上の交流をしたいと思っています。
  S君、Sさん、そして、お二人の保護者の強い願いで動き出した居住地交流ですが、3年間だけのこと、この二人だけのことに終わることのないよう、本校にとっては、これからこそが大切だと感じています。
                                                    (文責 馬場 薫)