私にとっての宮崎さん

                                             関山 域子

宮崎さんがお亡くなりになってからもうすぐ6か月。お亡くなりになったことを実感したのは、お宅でカジュアルな格好で微笑んでおられる御遺影と白い納骨箱を見た時です。以来、自分にとっての宮崎さんは?と問いかけておりました。

 

始めに沸き起こってきた感情は、今の私があるのは、宮崎隆太郎さんという人物のお蔭−感謝!ありがとう!宮崎さん!という気持ちです。私は、37年間小学校教員をしてきましたが、4年目に枚方に来てその数年後に、H君と言ういわゆる自閉症の子どもと出会い、担任は北野純子さん、私は養護担任として初年度は  全時間入り込み、普通学級だけでの暮らしをやり切ることで出発し、5年目は担任をしました。その時期に、宮崎さんがお書きになった『学校ぐるみの障害児教育』をむさぼるように読みました。宮崎さんは、隣の校区の枚方第二小学校、私は枚方小学校でしたが、当時校内の同和教育研究会(解放教育研究会)を担当し、北野さんとのH君と子ども達についての報告だけでなく、校内の障害児や子ども達の様子、担任の取り組みや心情を書いてもらい、月1回出す通信を教師向けに出していました。その根底に、枚方小学校で「学校ぐるみの障害児教育」を、いやその頃は「統合教育」をするんだ!という意欲に燃えていました。宮崎さんにもお送りしていました。それがきっかけかどうかわかりませんが、北野さんが15単組で報告したり、津田道夫さんの『障害者教育研究』

にデビュ−したり。私は、九州のなずな園の近藤原理さんから合宿のレポ−タ−にと依頼を受けたり。NHKの総合で『ともに学ぶ』授業をしているという事で北野さんと子ども達と取材を受けたり。徳田茂さんからは、ひまわりの親の会で話をしてほしいと言ってくださり、小さい3人の息子たちを連れて金沢まで行きましたね。そういう動きの中で、私は「障害児」や「障害児教育」「統合教育」を巡って、宮崎さんから多くの示唆を受けるだけでなく、小澤勲さんをはじめ読んだ方がいい本を紹介して下さったり、宮崎さんがご縁を繋いでくださった色々な方と出会わせて頂きました。そのご縁を長く大事にさせて頂いてきました。生き方を学ばせて頂いてきたと思います。

 

同時に、宮崎さんは‘79養護学校義務化の頃、市教委の指導主事になってその立場から義務化を阻止するという姿勢だったと洩れ聞いています。同時に、のちに「子どもを見つめる会」と銘打った枚方市教育研究会の一つの班を準備しておられたそうです。私は、出発したその班に参加しました。「子どもから感じ、教師が何をするかを考える」というのがポリシ−だったと思います。班員が授業公開をし、「障害児」やクラスの子どもたちがどんな学びができているか。クラスに居るだけで良しとしない事を主張されていたと思います。また、貴重な実践をしている方を招いてお話を聴く機会を作ってくださいました。それだけではありません。外へ出かけ、現場から学ぶ機会を作ってくださいました。止揚学園、すばる舎、えんぴつの家など出かけました。とても刺激的でした。

ところが、5年後、宮崎さんは「班長を辞める」と言われ、「関山さん、後をやってくれ!」と。青天の霹靂でした。宮崎さんが班長をしておられた頃は、多い時で130名位の班員がいましたが。私は8人位で運営会議を作り、皆さんに助けてもらって進めました。枚方市教委が自主的な市教研をつぶした年まで25年間、班長を続けました。宮崎さんがしてこられたことを踏襲しつつ、また、障害児がいる学級での授業をどう展開するかを、西岡陽子さん達から大いに意見を聞き、実際を見せて頂き、私も公開授業をして。「見つめる会」の幕引き時は、班員は25名ほどになっていました。でも、今なお、10名ほどが「子どもを見つめる市民の会」と銘打って、年1回集まり、今の自分を語り、励まし合っています。宮崎さん、退職組がほとんどで、年は重ねましたが、お蔭さまで「見つめる会」は今も、健在ですよ!!!感謝です!m(- -)m

 

他方で、宮崎さんとの関係で、私なりにしんどい思いをした時期があります。20年前に日教組教研で、大阪代表として私が報告をした後。私は、全国の報告や討論を聴いて、自分の身の回りにはない実践や主張に目が開く思いがしました。「障害児」を「分けない」ことに根本を置いて闘っている人たちの実際を知ったことです。また、「零点でも高校へ」と知的障害のある生徒の進路を開くたたかいをしている人たち・運動を知りました。私は、その思いを、「見つめる会」でも知ってもらいたくて、大阪市や東京、豊中から講師をお招きしました。その事が、宮崎さんの怒りをかったと思いました。突然、年賀状もいらないと断られました。前後は定かではありませんが、であいの会もおやめになり、種智院大学の先生になられました。でも、私は、一度も大学にお訪ねしたことはありません。今は、行けばよかったという思いは持っていますが…。

ところが、多分2009年春、突然宮崎さんから御電話を頂きました。「食事を一緒にせ〜へんか」と。本当にびっくりしました。そして嬉しかったです。退職していた私は、精神保健福祉士や上級心理臨床カウンセラ−の勉強をしていて、「テストが終わるまで待って下さい」と言いました。その時、宮崎さんは、「あんたはちがう!えらい!」と言われました。宮崎さんからお褒めの言葉を頂いたのは、この時が初めてです。そして、最後になりました。その年の暮、私は宮崎さん宛にほぼ20年ぶりに年賀状を書きました。お正月に、宮崎さんから、私の年賀状を喜んで受け取られた心情が伝わる年賀状が届きました。よかったあ〜。その後、実際にお会いしていません。しかし、体調がお悪いことを伝え聞き、御電話をかけたり、葉書で励ましの気持ちをお伝えしていました。最後になった御電話での宮崎さんのお声が耳朶に残っております。

 

最近、宮崎さんの著書の扉に「関山域子先生 おおらかで 雄々しい 出発を祈りつつ

宮崎隆太郎」と几帳面に筆でしたためられている文字を見つけました。こんな風に書いて本を頂いていたんだ〜。忘れていました。

この宮崎さんの姿勢に、私は、自分の態度の横柄さ、人として浅い所で宮崎さんへの不信感に陥っていたことを、痛感しました。この本は、『障害児の異議申し立て−人と人とのつながりを求めて』で1986年に出版されています。当時、私は離婚問題を抱えており、3人の息子達は、枚方第二小に通っていましたから、私への励ましのエ−ルを頂いていたのだと、記憶を手繰り寄せました。

『異議申し立て』と『障害児と共に学ぶ』2冊を今回改めて見直しました。世間の障害者観、障害者教育観をしっかりにらみを据えて、検討しながら、ご自分の実践を根本に、障害者観を正面から問い直しておられます。また、その視点で、御自分を見つめ、教師たち、親たちを問うて「共に学ぶ」教育について、反批判をおそれず、論を立てておられます。(*後述)

特別支援教育、発達障害論、脳の機能障害説と「障害」の現象的な、一見「医学的な」

見分け方が蔓延している昨今、貴重な提案をなさっていると再認識した次第です。また、枚方第二小の教師たちとの共に学ぶ授業のやり取りの報告も、改めて新鮮なもの・迫力を感じました。

 

宮崎さん、批判をおそれず、孤立してでも、障害児を見つめ、開拓者精神旺盛に歩んでこられた人生、本当にご苦労様でした。お疲れ様でした。これから宮崎さんのお仕事の中身が見直される機会がきっとあると私は思います。ありがとう! ありがとうございました!!!さようなら!また、どこかでお会いしましょう!!!

 

*例えば

障害児を「医学モデル」で見ることに反対の立場を取り、人として丸ごと受け入れ、付き合おうとされています。−人と人との関係こそ大事!と。例えば、「自閉症児」の「常動行動」や「同一性保持の強迫的欲求」と言われるものが、「空虚で無意味なもの」でなく、必ず、周囲の状況の関係の中で行われるものなのだ〜と。「自閉症児」が周囲に無関心であるというのは、大きな誤り!彼らは、外見とはちがってたえず周囲に感度の良いアンテナをつったてて、周囲を強烈に意識しながら行動している。ただ極度に緊張が強く、こころとからだがなめらかに作動しないだけのことでないか−と。(『障害児の異議申し立て』p.

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