懐旧と感謝の念とともに

宮崎隆太郎さんを偲ぶ

 

               篠原睦治

 

 

『学校ぐるみの障害児教育』に出会うことから

 

「ゆきわたり」の長年の読者で、「アメリカ大陸横断旅行」(一九九七年)を共にし、その後も、折に、「春討」に参加して下さってきた関山域子さん(大阪・枚方市)が、今年の新年号で、「宮崎隆太郎さんがお亡くなりになった」ことを知らせて下さった。

宮崎さんは、この間、白血病で入退院をくり返されていたが、昨年の十一月、入院先で七五才で亡くなったとうかがった。宮崎さんは、大阪・枚方市で、六十年代前半、小学校で特殊学級を担任することから、「障害児・者」との関わりを始めている。七十年代当初には、学校から切り捨てられていた「重度障害児(のための)学級」を普通学校の中に設置し、そこでの実践の限界を体験しながら、「普通学級で『障害児』と共に」という実践に取り組みつつ、その報告を公開されてきた。

そのころ、ぼくは、彼の『学校ぐるみの障害児教育―枚方市開成小学校の場合』(ミネルヴァ書房 一九七四年)、『普通学級のなかの障害児―知恵おくれ、自閉症児の統合教育の試み』(三一書房 一九八一年)を読んでいたが、いつかお会いして語り合いたいと願っていた。

その機会は、意外と早く訪れた。当時(一九八二年)、臨床心理学会は学会改革を初めて十年が経っていて、そのことを振り返る一つの切り口として「シンポ なぜ『共に』をめざすのか―「障害児」教育運動の原点から、現状の課題を考える」(「臨床心理学研究」二十巻三号掲載)を開いたのだが、そこで宮崎さんもぼくも発題している。

このとき、宮崎さんは、幾つものことを語っているが、印象深いことを一つだけ紹介する。大阪では、「障害児」が「校区の学校」に入るという形は出来ているが、多くの教師たちは、「健常児」の「障害児」との関わり方の変化や、その関係のなかでの「障害児」の成長の様子を語るのみだと批判し、教師たちは、「あたりまえのこととして、授業という一つの活動のなかへ『障害児』を引っ張り込む努力をする。そのために、教具を工夫したり、ときには、その子をみんなで待つというようなことをやってみるのです。……そんなことをやりだすと、これはもう『障害児』だけの問題じゃなくて、すべての子どもにつながる問題です」と発言している。

 

八十年代初頭、子問研事務所(池袋)で語り合い出す

 

このころ、ぼくらは、「勉強が出来ても出来なくても、校区の普通学級へ」と願い主張し、「親たちはずぶとく普通学級に逆流しよう」、「教師たちは、『出来る』ようにすることにしばられないでほしい。何もしなくていいから、追い出さないで!」と言っていた。

そんなわけで、お互いは共鳴する部分と異論・反論のある部分を持っていたのだが、ぼくは、このシンポが終わった時、宮崎さんに、近い将来、改めてゆっくり語り合いたいとプロポーズした。それが実現したのは、子問研が池袋のマンションの一角に事務・会議・作業の場所を持って間もなくの頃だった(八二年十一月二七日)。その様子については、既述の関山さんのご報告のリード部分で、ぼくが短く記した。ただ、その語らいの場に関山さんがおられたと書いたのはぼくの思い込みで、関山さんが書かれた「宮崎・山尾論争の深化のために(十)―『共生・共育』が形骸化されている危機的な現実を出発点として」(八四年二月号)を読み直すと、この場には居なかったと判る。なお、この文章は、枚方の地で、宮崎さんと、教師仲間として一緒に考えていた渦中で書かれている。

 

宮崎さん、山尾さんの「報告」に不快を表すことから

 

「宮崎・山尾論争の深化のために」のシリーズ開始のきっかけは、山尾謙二さんが、このときの語らいを報告した「〈宮崎隆太郎さんたちと話しあって考えたこと〉もっと〈気楽に〉子どもと一緒に学び合うことはできないかなあ!」(八二年十二月号)だが、すぐに宮崎さんは、長文の「『ゆきわたり』第118号の山尾謙二さんの報告を読んで」(八三年二月号)を寄稿されている。冒頭「あの報告は一刀両断ではないか」と不快を表明しているが、丁寧に応答されている。その一部に、次の一文がある。

山尾さんが「『障害児』が教える対象であることに、ぼくは嫌悪を感じます」と述べていることに対して、「山尾さんたちにすれば不思議と思われるかもしれませんが、私もそのことについてはまったくその通りだと思っています。普通学級のなかの子どもたち同士が学び合う状況を創り出すことの重要性については痛感しているし、むしろ『シャカリキに教え込もうとする教師の立場』に私だって嫌悪感を抱いています。もちろん、意識はしていてもなかなかそこを乗り越えられない自分自身に嫌悪感を抱いているという意味です」と、教師の立場を大切するがゆえに引きずる矛盾、葛藤を記している。

 

「背負された『教師の業』をムチ打つのではなく―篠原先生への反論」

 

追って、ぼくは、「宮崎・山尾論争のうずをひろげよう―言いだしっぺのいささか長いプロローグ」(八三年三月号)、「宮崎・山尾論争の深化のために(その一)」(同年四月号)を書くのだが、宮崎さんは、「背負された『教師の業』をムチ打つのではなく―篠原先生への反論」(同年七月号)と題して応答されている。

(宮崎さんとぼくとは同世代。彼が「篠原先生」、ぼくが「宮崎さん」と通して呼んでいるのに改めて違和感がある。すぐに、お互いは「さん」付けでいきましょうと、ぼくの方から言うべきだったのだろうか。)

この「反論」のなかから、幾つかを拾っておこう。しかも、ぼくの要約である。

〇普通学級に障害児を受け入れていることで、先進的な取り組みをしていると思っている人たちが、一方で、テスト体制にもたれかかっている。この現実に対して、篠原さんの発想は結構なご託宣にならないか。

〇教材は、子どもたちが喜ぶかもしれない、興味を持ってくれそうだ、と思いつつ工夫するものであって、篠原さんは、これを技術至上主義と一蹴し、「教師の業」と言っているのは言い過ぎではないか。

〇篠原さんたちが「出会い、つき合う」ことの重要性を起点としていることは承知しているが、私たちがいま大阪で問題にしているのは、形の上での受け入れではなく、実質的な疎外の現実だ。「障害児」にていねいに関わる教師はどの子も疎外しないはず。

〇篠原さんは、「障害児」をなぜいじめなかったのか、優しかったのかについて、勘ぐるに「障害児」への「理解」や「親切」を要求した教師への「良い子」の側の順応ではなかったかと問うているが、その通りで、教師が理念を先行させて押しつけていくことに対して、表面上反応してくる子どもたちの姿を、そのような教師は見詰めようとしていない。

私のいう「うんざりする日常性」は、篠原さんの言う「共同利害的な関係」に通じていまいか。

 

くり返すが、これらは「反論」の要約ではない。その一端である。読者の皆さんには、この一端から、宮崎さんが率直、誠実に、山尾さんやぼくに向き合っている様子や、この後の論争が長続きしていく事情を察してくださればと願っている。

 

「宮崎・山尾論争の深化のために」は延々と続く

 

こうして、「宮崎・山尾論争の深化のために」は、(その十一)まで続く。いま、それぞれの要約を試みることは省略する。ただ、だれが書いているかのリストアップだけはさせて頂く。当時関わった皆さんには、なつかしい思い出のメモであればと願うし、その後の皆さんには、「よくぞ、しつこく」と感じて頂ければと…。

島田勝則(小松市)「学校でも地域でもいつも一緒に」八三年六月号 

浪川新子「『はみだす』ことからの出直しこそ」同年九月号 

斉藤寛「『学校というシャバ』を変えることへの架橋[T] [U」」同年十月号、十一月号 

水本妙子「親の側からの感想」同年十二月号   

林隆造「関西で学ぶ親の立場から」八四年一月号 

関山域子(枚方市)「『共生・共育』が形骸化されている危機的な現実を出発点として」八四年二月号 

青柳隆(豊中市緑地小勤務)「普通教育を問い続けることの手がかりを共有するために―『〈公開書簡〉豊中の「共に」派教師たちへ』に応えて」八四年三月号

(「〈公開書簡〉豊中の「共に」派教師たちへ」は、八三年九月号に、篠原が同年八月、豊中教組の皆さんと討論した後に書いたもの)

 

そして「春討」へ―山尾さん、親たちこそ、「共に学ぶ」を共有しよう

 

そして、第九回春の討論集会(八四年四月一日・二日)へとつながっていく。この時のプログラムを見るとてんこ盛りである。二日目だけを紹介するが、「『共に学ぶ』ことの思いを語る―『宮崎・山尾論争の深化のために』を読みつつ」(小林慶子、前島瞳、伊部純子、撹上久子、片桐健司、林隆造)、「語り合おう『学校・先生・授業』のこと―主に午前の提起を受けて」(山尾謙二、宮崎隆太郎)だった。

ここでは、山尾さんと宮崎さんが何を語ったかを、斉藤寛さんが要約した文章からさらに短く紹介する(同年七月号)。

 

山尾さん―ぼくは専門家におまかせするのはいやだ、だから、小難しいことも言いたくなる。午前中の親たちの発言を聞いていて、もっと親たちが教師とケンカしながら、「共に学ぶ」力を持たなくてはダメだ。

ぼくの宮崎さんへの批判は、むしろ子問研の親たちに向けたもので、親同士が「共に学ぶ」ということを共有しないで、教師たちの「恩恵」にあずかったり、彼らに「理解」して頂く段階で、普通学級と付き合っていないか、イライラした。

ぼくが宮崎さんに食いついていったことは、「障害児」の親としてのぼく自身が、抑圧者となっていないかという問題なので、教師にとっても親にとっても同様に大きなテーマだ、地域性の違いだとかの問題ではない。

「障害児」が普通学級に入っていくことで、教師の頭が柔らかくなっていく、そこが出会いの始まりと思う。林さんが言っている「障害児」と暮らすことは楽しいことでもあるといった価値転換を、教師もしてほしい。「出来ない」ことの重みも考えてほしい。「何も教えてくれるな」とついつい言ってしまうのは、この辺のことから出ている。

それから、教師が、学級づくり、仲間づくり、と言うときの危なさを考えてほしい。このとき、「障害児」が憐みや愛情の対象とされることに腹が立つ。子ども同士が自然に育ちあうことに賭けられないだろうか。

学校へのもっと自由なユメを膨らませないと、「障害児」が入っていくスキマがなくなる。学校以外に学習はあり得ないという幻想を撃つことで、地域につながる。一方で、学校は授業だけではない、生活時・空間としてイメージしていくことに賭けたい。

授業はどうでもいいと思っていないが、生活学習と知的学習をわけて、前者は普通学級で、後者は個別指導でと分離して調和させるということは失礼な話だ。

ぼくは、アメーバーみたいに伸縮していく混沌の時・空間を大切にしたい。人間のさかしらな知恵や進歩への情熱が混沌を窒息させてしまうことに警戒したい。混沌の空間の中で、親も教師も自由奔放に感動していく感性を磨き続けることしかない。

 

「障害児」からの異議申し立てを受けとめながら

 

宮崎―子問研の人たちと十の内、一つくらいは一緒かなと気楽に寄せてもらったが、そうでもなくて、驚いた感じもしたけれど、この論争の過程で、自分の中でも感じ方が変わっているということもあって、うれしい。

大阪でも、七〇年以前は親の運動が先行していて、教師の方は、養護学校増設運動だった。親から教師が突きつけられ、重度障害児学級が作られ、何人かの子は普通学級に通うようになって、ようやく教組も動き出した。

しかし、いま、大阪でも、「共に」を主張する教師にとっては、厳しい状況がジワジワと広がっている。昨日まで手をつないでいた仲間が、ある日突然変なことを言いだしている。

「教える、分からせる」ではなくて、「出会い、つき合い」の問題だということが今朝も出ていたが、そこはぼくもその通りだと思う。ただ、「障害児」と呼ばれる子から異議申し立てされている感じがしてならない。

例えば、マコト君が荒れ回っていたのに対して、教師も親も力で押さえこもうとしてきた。この一年間、ぼくたちは、力で押さえる、叱りつける、叩くことをしないでつき合ってきた。いろんなことをマコト君が抱え込んで、それをバッとひとを叩くとかの形でしか表現しない。そこを叩き返して叱っても、彼の心の中では何か違うわけだ。

例えば、マコト君がイチゴ畑に入ると、お母さんは、以前だと「コラッ!」とか叱ったけれど、叱らないでつき合おうとがんばるなかで、「入ってはダメ」と言い聞かせはするけれど「マコちゃん、イチゴ、ほしいの? じゃあ、帰りに買っていこうね」というようにやりとりができていくと、もうイチゴ畑に入らなくなっていく。

そんなふうに、その子の思いをフッと受けとめる、彼には彼なりの思いがあるんだ、ということがようやく分かって来た。今は、授業中フラリと立っても、誰も言わない。しばらくして、教師が「マコちゃん、もういい?」と聞くと、もういい、みたいなことになっている。以前だと、クラスの中には40人の「副担任」みたいなのがいるから、仲間、集団という名で、子どもたちからも管理されていた。それで荒れていたのだと思う。

ところが、こういうつき合いをしていくと、いっぱい矛盾が出てくる。例えば、去年の運動会のときに、組み立て体操でジュン君が参加したが、彼は面白くなくて寝転がってしまった。待っていれば自分で動き出すと分かっているが、運動会などでは、親も見ていたりするので、結局、ぼくは、引っ張り込んでカッコを付けた。それで、あとから、「障害児」の親たちに、「今日のあれは、普段言うてることと違いますねぇ」と批判を食らった。他の教師に聞いても、「あれはおかしい」と言われた。

集団で一緒にやってほしい思いもあって、ここというところでは教師根性が出て、引っ張り込もうとしてしまう。この辺の矛盾を日常的に感じている。

午前中に、小林さんが、「その子のための教材を、ではなく」と言われ、片桐さんが「『障害児』がいるから何かしなくては、というのはおかしい」と言われた件だが、ぼくは、ただ目の前にいろんな子がいるとき、こちらを向いてほしいという心配りがいるという気がする。

例えば、水に溶けるものの授業で、食塩水と砂糖水を並べて、「これ、どう違う?」と教師が聞くと、大半の子どもたちは、前の算数の時間を思い出して、同じ量やけどなあ、と言っている。そんなとき、マコト君がフラッと出てきて、水に指を突っ込んで変な顔をするわけ。

で、他の子たちも「舐めたらええねん」ということになって、マコト君のおかげで、私も子どもたちも行き詰っているところが切り開かれたなあと思ったけれど、そういうふうに、サラッと受け止められる教師かどうかということが大事なんかなあ…と思う。

 

学校で「叱る・怒る」ことは自然か権力行為か

 

山尾さんの問いは、宮崎さんに向けてきた矛先を、自分たち親たちが「共に生きる・学ぶこと」に賭けているかを軸に、自他に拡散している。

宮崎さんは、東京の親たちの肉声に接しながら、いま、教師の感性、姿勢は、普通学級のなかで、「障害児」から気づかされつつ、「共に学ぶ」試行錯誤をしていく他ないのだと、一貫して応答している。

 

この対話の後、討論に入るのだが、斉藤さんは、五点に論点をまとめている。最後のは「子どもの思いをめぐって」だが、ここだけを紹介しよう。

片桐さん、伊部さん、そしてぼくも、「怒るべきときは怒っていいのではないか」と感想を述べつつ、ぼくは「学校・学級も、生活者同士の関係、シャバのど真ん中なのだから」と述べ、「宮崎さんの話は、子ども中心主義、心理主義になっていないか」と反問している。

斉藤さんは、この篠原さんの発言と宮崎さんの立場との交錯がとてもひっかかると言って、「『文部省の出店』としての学校・学級というシャバで、教師の子どもに対する権力性・管理性を問わずに、前者が後者を『怒る・叱る』ことを自然、あたりまえと言ってしまっていいのか」と問いかえしている。そして、「といって、ここまでは、“本来の”人間関係、ここからは、権力行使の関係と分けられないのが現実なのだから、そこでの、すべては矛盾を抱え、戦略的にならざるを得ないのではないか」と付言している。

 

「体罰厳禁、いじめ撲滅」キャンペーンの疑問と現在

 

話が横道に入るが、ぼくは、八十年代に入って、「上」からもマスコミからも発信されてきた「体罰厳禁、いじめ撲滅」キャンペーンに対して、「全国教研」などで批判的な発言をしていた。

教師が子どもに、理をつくし情を込めて叱り、怒り、つい手が出てしまうことを絶対的なマイナスで厳禁・厳罰の対象にしてしまうことを恐れたのだ。また、子ども同士が、向きになってケンカを始める、殴り合いになる、そして仲裁が入る、仲直りをするといった事態を、一方の他方に対する「いじめ」と括り直すことで、かえって、陰険、陰惨ないじめにならないかと案じた。

案の定、いま、「体罰」も「ケンカ」も一見なくなったようだ。でも、規律、規範は強化され、静かな順応の強制が進行していないか。「心を傷つけない」が先行し、「傷ついた心」は「心の病」とされ、すぐに「カウンセリングへ」となっている。一方で、子どもたちの間では、肉体のぶつかりあいや感情表出のない「シカト」や「暗闇のいじめ」がかえって強くなっていないか。

こんな今日的状況で、宮崎さんの体験と主張、ぼくらの反問、その交錯点に投げかけた斉藤さんの疑問は、いま、ここで、混ざり合って、あり続けている。

この渦の中で、いまは亡き宮崎さんは、次の(関山さんが新年号で紹介している)「五行詩」に託された感想、意見を述べるのではないか。

 

「障害者」を傷つけていないか/彼らの気持ちを受け止められているか/と悩むまじめヘルパーの研修会で/「障害者」に気をつかい過ぎないで/傷つけあうのも人間関係と言ってしまう

 

変な子/発達障害じゃない?/特別な配慮、即排除/排除される人が増えて/世の中がおかしくなっていく

 

子どもや親とガチンコでぶつかる/そんな教員がいなくなり/人を傷つけるだけの人間が/増えていく

 

教員同士もぶつかりあった/泣かれたり恨まれたりもした/そんなやりとりができた時代は/学校も教員も少しずつ変化した

 

あの「春討」から三十年が経っている。あのとき問い合った関係と問題は、いま、ここでも、いや、いまこそ、姿、形を変えつつもあり続けている。宮崎さんの意見を聞きながらなのだから、不思議と言ってもいいし、有り難い、うれしいことと励まされる。

 

宮崎さんとつくった、あの「論争」と「春討」!

 

「春討」のあと、九〇年前後だろうか、宮崎さんと、営業中のこもん軒で再会している。若者一〇人ほどを連れて、東京見物に来られたのだが、うれしいことに、その最初のスポットは、こもん軒だった。「大阪では、駅構内で、車イスの者を見ると、通行人が頼みもしないのに寄って来て、一緒に階段を上ってくれますよ。東京では、頼むことから始まるようですね」といった話をしたのを覚えている。そして、原宿の若者の町、竹下通りを散歩して、その一角で夕食を共にした。当時、宮崎さんは、尿結石に苛まれていたようだが、その様子を見せることなく、こもん軒へは、宮崎さんの思いで、そして、竹下通りへは、若者の関心に沿わせて、という感じで、最初の日を過ごされたのだと思う。

そのときからでも、長い歳月が経っている。すっかりご無沙汰のままいたのだ。そして、本年早々、関山さんから、訃報をうかがうことになった。追って二月号で、林さんが、宮崎さんから「宮崎・山尾論争」に加わるように誘われ、あの「春討」にも一緒してほしいと言われたと書いている。「春討」の帰りの車中で、宮崎さんは「今日は大分肩持ってくれはった」と言い、林さんはビールをおごってもらったと記している。

こんなエピソードを読みながら、宮崎さんには、二年余りにわたって、この「論争」と「春討」に誠実かつ緊張的につき合って頂いたのだと思い、改めて、ご苦労さまでしたと申し上げたい。と同時に、この一連の流れは、宮崎さんと組んで一緒につくりあげたのだと、その関係に誇らしい気持ちになる。

 

いま、再び、宮崎さんの晩年の作「五行詩」を味い、

拙文をご霊前にささげる

 

今回の関山さん、林さんの文章に触発されて、「論争」と「春討」を久しぶりに読み返すと、余りにも長くごぶさたしていたにもかかわらず、懐旧と感謝の念が湧いてきて、宮崎さんを偲ぶ文章を書きたくなり書かせてもらっているのだが、最後に、晩年の様子、お気持ちをうたった幾つかを再掲させて頂く。

 

点滴のため/五日間連続で通院する/京の大文字山の麓の病院/奈良の近くからよく通うね/病院でほめてもらうのがうれしくて

 

完全に「主婦」やってるね/オバちゃんたちによく言われる/「主夫」だけどね/そやけど適当に手抜きしいや/とも言ってくれる

 

準無菌室で/退屈などしていません/いろんな人が/手を尽くして/守って下さる感じ

 

あと十年/なにもしなくてもいいから/と言ってくれる人たちの/顔が思い浮かぶ/輸血を受けながら

 

し残したるはさてうち置きたるは/おもしろく生き延ぶるわざなり/と徒然草/やり残したことがあっても/完璧でなくてもそれでいいのだ

 

退院の二日後/思い焦れた/神戸元町の赤萬の餃子と/龍鳳の肉ちまきと/観音屋のチーズケーキに突進

(実は、もっとあれもこれもと再掲したくなる。読者の皆さんには、関山さんが紹介して下さった、もっと沢山の「五行詩」に戻って味読して下さればと願って、割愛する。)

 

これらを反芻しながら、つい昨秋まで、それぞれが、同時代、同世代を、大阪と東京それぞれの地で、思いを重ね交錯させながら暮らしていたのだと改めて思う。

重ねて、懐旧の念、感謝の気持ちを添えて、ご冥福を祈りつつ、この拙文をご霊前にささげる。(2015/03/17)