娘と共に歩む  インクルーシブ教育

2014918

新 みすず

新 万智子

 

10年間挑戦した高校受験

大阪府立高校の卒業証書を頂くのに、中学卒業から14年の歳月がかかった娘です。娘は、大阪府立N高校を10回、入学試験を受験しました。N高校は自宅から徒歩10分のところにあります。娘は自宅から、N高校へ通学していく生徒を、毎日見つめていたものです。

「知的障がい生徒自立支援コース」ができたり(娘には受験資格も与えられませんでしたが)、「高校受験の制度」も変るなど、娘が落ち続けた10年間は、大阪府の高校受験も大きく変動した時期でした。この10年間、私達親子はどれほどの涙を流してきたことでしょう。10年の間に娘が入学できるチャンスは、3回ありました。1回目は最初に受験したS高校定時制、2回目は2年目に受験したN高校、3回目はS高校定時制で、全て定員内不合格でした。

お友達は当たり前のように高校生になれるのに、何故娘は高校生になれないの?高校生になれない娘はどこが悪いの?点数を取れないという障害はどのようにしたら治るの?知的障害のある生徒は高校へは行けないの?障害のある娘と健常と言われる人とどう違うの?高校受験を続けるのは親のエゴなの?などといろいろ悩みました。

娘は、落とされても落とされてもめげずに頑張っているのに、親がへこたれるのは、頑張っている娘に失礼なのではと思い直し、再度受験に挑みました。合格発表の時最初は、ドキドキしながら発表を見ました。娘の受験番号がないかと何度も何度も見直しました。回を重ねるごとに、頭からどうせ不合格やろうと真剣に見ることもなく、やっぱり今年も不合格やなと、現実を見せつけられ、どうしたものかと私達親子はうちのめされて帰宅したものです。毎回毎回、娘の受験番号のない合格発表を見るのはどれほど辛いことか。

来年こそ高校生にさせてあげたいと思う気持ちの反面、どうしたらよいのかなすすべが浮かばず、選抜制度の壁の厚さをひしひしと感じ、怒り、悲しみ、言いようがない悔しさを感じ続けました。10年間親子で心の挌闘をしました。

でもO高校定時制に行ったことで、10年間流した涙の分以上に、私達親子には何十倍もの喜びが返ってきました。

 

地域の保育園、小学校、中学校に通う

生まれながらの知的障害を持つ万智子は、9月で29歳になります。

最初からインクルーシブ教育を目指したのではありません。障害があり訓練のために通院していた担当の医者から、「貴女のお子さんは、元気な子どもと同じようには育つことはできません。重度の知的障害があり、歩行も困難である。このような子どもを専門に預かるところで育てた方が良い。」と言われて、反発心が生まれました。「少し診察しただけで娘の何が分かる。私は親だから娘の事は誰よりもよく知っている」と食ってかかったものです。そして「子どもは子どもの中で育つ」という言葉に望みを託し、2年待機して3歳から地域の保育所に入れました。その時も「障害児の3歳からの保育はしていない」と行政に断られましたが、「障害児として保育してほしいのではなく、一人の子どもとして保育してほしい」と、何度も交渉に行き、やっと入所することができました。万智子は、入所当時まだ歩行は困難でしたが、4歳の時心臓の手術をしてやっと歩行ができるようになりました。万智子は、周りの子どもにもまれながらスクスクと育ちました。

小学校は、地域の小学校に入学しました。特別支援学級在籍は拒否しました。何故なら、支援学級に在籍することは親がわが子を特別視することだと思ったからです。小学校では親の気持ちを理解してもらうことが出来ず、困りました。例えば1年生の時の担任には、「支援学級に在籍するから担任したのに、約束違反や」と苦情を言われたり、当時おもらしすることが多い万智子に対して、「私はあんたのおもらし処理をするために教師になったのでない」と、他の子ども達の前で言われたりしたこともありました。

でもクラスメートと共に育つことはいいですね。2学期頃になると周りの子どもが、先生の雑巾をもっておもらしの処理をしてくれたり、休み時間には、数人の子どもが万智子をトイレに連れて行ってくれるようになり、万智子も排泄がトイレで出来るようになりました。

小学校の6年間、学年が上がるたびに、学校から「支援学級に在籍しないから、万智子のクラスを担任する教師がいないので困る。」と言われた。6年生の時は、クラスメートからいじめを受けると、学級懇談の時に、「万智子が授業中大声で泣いて授業を妨害するから、いじめられても仕方ない。」と担任から釈明がありました。この担任の言葉に、他の保護者がびっくりしていました。でもいじめる子ばかりではありませんでした。いじめる子から娘を守ってくれたり、家に帰り「担任が万智子に八つ当たりしているのでは」と話す子がいたり、万智子の事を見守ってくれている子ども達もいました。

万智子は、勉強はサッパリ理解できませんでしたが、中学校も、小学校で共に育った子どもたちと地域の学校に入学しました。中学校では、事前に親の気持ちを伝えて理解をしていただいていたので、支援学級に在籍しないで過ごしました。授業の空いている先生が、交代で万智子の傍についてくださいました。

中学校は、小学校と違い教室移動が多いのですが、女子生徒だけでなく男子生徒も、万智子と手をつないで移動教室へ連れて行ってくれていました。当時は、娘は、クラスがざわついていると不安になり授業中大声で泣くことは、日常茶飯事でした。

2年生ごろになると、万智子の事を理解してくれる生徒が多くなり、授業中クラスで騒いだりする生徒を他の生徒が注意するため、先生は、「万智子のいるクラスは静かに授業をしてくれるので助かる」と言われたりしました。クラスの中には、万智子と関わることで爪を立てられ、何度も手を怪我しているにも関わらず、よく万智子の世話をしてくれる生徒もいました。その子は、高校は福祉関係の学校に進み今は施設で働いています。

波乱万丈の義務教育も、共に学ぶことで、万智子は仲間からいっぱい刺激を受け、図太くしたたかに生きるすべを学んだと思います。又周りの生徒は万智子と関わることで、障害者は自分達と変わらないことを解ってくれたと思います。

成人式の時、万智子が式に出席することを3年の担任だった先生に伝えると、「万智子が式に出るから、式の最中は万智子の傍に座って万智子を見るように」と集合がかかり、大半の生徒が集合し楽しい式となりました。でも当の万智子は着物を着ておすまし。周りの生徒は拍子抜け。そして「万智子も大人になったな」と一言。この言葉はやはり共に育ったから出る言葉だと思います。

このような素晴らしい関係を、中学校で終えるのはもったいないと思い、障害があっても普通高校へと、家の近くのN高校を受験し続けました。10N高校を受験しましたが、点数を取れない万智子にとって選抜制度の壁は分厚く、N高校へ入学することはできませんでした。

 

高校生活

10年目にしてO高校定時制にやっと入学できました。しかし、波乱の幕開けとなりました。

高校側には重度の知的障害者が入学した経験はなく、万智子がどのような生徒か分からない、重度の知的障害者に対する接し方も分からない、分からないずくめの幕開けでした。重度の知的障害者の事を教えてもらうため、特別支援学校高等部に視察に行かれ、いろいろ相談されたようです。

当の万智子は、中学校を卒業して以来、10年間授業というものを受けたことがなく、毎日の学校生活になじめるだろうか、通学は大丈夫だろうか(自宅からバスに30分乗り、樟葉から天満橋まで京阪電車に乗る。片道1時間30。下校はバスの時間もあり、自宅につくのは夜11時頃)など、高校側にとっても私にとっても一つひとつが手探りの連続で、波乱万丈の幕開けとなりました。

案の定、娘は学校生活に慣れず、学校中とどろきわたるような声で泣くわ、泣いていないときはトイレにこもってエスケープするなど、授業を受けるというものではありませんでした。通学も、車中で泣くのは当たり前、定期券を破るわ、下車する時前の人を引っ張るわ、たくさんの「事件」を起こしてくれました。

学校でパニックを起こしている間、娘は廊下にいることが多かったです。O高校定時制の先生方も、かなりパニクっておられました。でも、1学期、2学期、3期と学期を重ねるごとに娘は落ち着きだし、教室にいられるようになりました。

クラスの仲間が授業を受けている様子を見ていたからでしょうね。あるとき娘が廊下で泣いていると、2人の同じ学年の生徒から「ちゃんとクラスに入らないとあかんで」と注意され、お友達に促されて、すんなりクラスに入りました。その2人もなかなかクラスに入らない生徒ですが、私が、「娘がちゃんとクラスに入ったのだから注意したあなたたちが入らないのはおかしいよね。」と言うと、「せやな。まっちゃんもしっかり勉強するんやから、私も入るわ。」と言い、すぐに自分たちの教室に入りました。(この2人は、先生が何回注意しても教室に入らなく、頭を抱えていたそうです。スンナリ入ったのに、びっくりされていました。)

1年の文化祭は、クラスで何をやるか決める時に、「まっちゃん、太鼓たたけるかもわからんやんか、たたけなくても真似だけでもいいやん」という意見が出て太鼓になりました。一人の男子生徒が手を挙げて娘の指導にあたると言ってくれたそうです。当日までの練習は、数人が娘の傍にいて、たたき方を教えてくれていました。文化祭の舞台では、楽しそうに太鼓をたたいていました。(学校の先生方の中には、「障害があるのに舞台に立たすのは可哀そう」と言われた方もおられたようです。)

娘は、舞台で太鼓をたたいたことが自信になったのか、その後いろんなことに自分なりに意欲を持ったように思います。

1年生の終わりに、HRで娘がなぜO高校定時制に来たのか話をしました。そして、生徒たちの意見を聞きました。万智子がいることへの苦情はほとんどなく、「障害あるのに、毎日ちゃんと来ているだけでもいいやん」「頑張っているねんし」とか、「大声出すけどそれは頑張っているからや」など、娘がクラスにいて迷惑だという排除的な意見は出ませんでした。実は、何を言われるかと内心ドキドキしていました。担任が「来年も同じクラスになるかもわからないけどいいの?」と言われたら、ほとんどの子は、「万智子と同じクラスになってもいいよ」と言ってくれて、びっくりしておられました。

このようにして、万智子はクラスの一員になっていきました。1年の時パニックを起こし、大声で泣いていたのがウソのように、2年の後半からは、万智子がいるかどうかわからないくらい静かに授業を受けていました。2年生の時、横についていただいた先生が、べったりつくのではなく、遠目に見守って頂いたのが良かったようです。

娘は、周りの生徒の様子を見て自分なりに勉強していったのだと思います。確かに授業内容は理解不能ですが、周りの生徒たちを観察し、自分がどうすればよいのか少しずつ考えるようになりました。

例えば、自分だけが特別な所へ行くのは嫌なようでした。あるとき英語の先生から、「発音練習のため、授業の半分を外へ取り出して授業をしたい」と申し出がありましたが、「親として取り出し授業はお断りする」と言いました。今度は、「終了前の5分間だけ発音の練習をしたい」と言われたので、先生の熱意に負け、5分間の取り出し授業をお願いしました。そして、いよいよ授業終了5分前、傍についておられる先生が外に行こうと促されても、「ない」と言って腕組みをして出なかったということです。他の生徒たちが教室にいるのに、自分だけ外に出るのはおかしいと思ったのでしょう。このように娘は、周りを見ながら判断できるようになってきました。

3年生は、修学旅行があります。修学旅行は、学校にとっても、娘にとっても、不安だらけだと思います。学校からは親の付き添いを頼まれましたが、娘は、小中学校の修学旅行は親の付き添いなしに参加してきましたし、修学旅行に親が付き添うのはおかしいと思っていますので、お断りしました。

結局、他の生徒たちと同じように親なしで参加しました。以前飛行機に乗って北海道へ家族旅行に行きましたが、中学生の時でしたので、飛行機に乗るのも久々です。飛行機は怖かったのか、飛行中泣いていたようです。千歳空港についても泣いていましたが、観光バスに乗ったらおとなしくなったようです。

他の生徒達といっしょの修学旅行の行程を終えて、無事帰ってきました。帰りの飛行機はどうもなかったようで、伊丹空港ではにこにこして降りてきました。やはり親がいないところで体験することは素晴らしいですね。帰ってからしばらくの間、「ユキ(雪)コンコ、ユキコンコ」と何度も繰り返し言い続けていました。雪の降る光景を友だちと見ながら(先生たちもいたのでしょうか)、いっしょに声に出していたのかもしれません。よほど楽しかったのだと想像されます。

4年生は、比較的穏やかな授業が受けられていました。4年生の行事は、1年生の時と比較するとすべて他の生徒と同じように参加できるようになりました。例えば、4年の時奈良公園へいきました。1年生〜3年生までの校外学習は先生と共に移動していたようですが、奈良公園では、担任が「万智子と一緒に散歩してほしい」というと男子生徒も交じって数人で散歩したようです。万智子はニコニコした表情だったそうです。文化祭も慣れたもので、大好きなダンスを皆と共に舞台で踊っていました。

学校のクライマックスである卒業式は、学校側と何度も話し合い、学校側の配慮の御蔭で、万智子一人で壇上に上がりしっかり卒業証書を、頂いていました。万智子の表情は得々としており共に学び共に高校生活をやり終えた充実感があったのだと思いました。

 

高校卒業後の進路

4年生になると卒業後の事も考えて行かねばなりません。学校にも卒業後の進路について相談にのって頂きましたが、なかなか見通しが立たず、とりあえず夏から秋の大学のオープンキャンパスを見学に行くことにしました。事前に大学ごとにオープンキャンパスの日程を調べ、行けるところは学校から大学に連絡をしてもらい、見学に参加しました。どの大学も、点数が取れない知的障害者にとって、またもや選抜制度が大きな壁となりました。そのような中で龍谷大学の見学の時、「ふれあい大学」があることを教えて頂き、担当の教授と会い、3月に願書を出すことになりました。4月にふれあい大学の入学通知が届き、月に2回ですが大学に通っています。

学生番号も頂いているので大学生協に入り、学食で学生にもまれながら楽しそうに食事をするのが、日課となっています。90分授業も何とか受講できています。

高校生活を経験できたからこそ、大学の講義も受講でき、大学生活を楽しめるのだと感じています。娘にとって、新しい世界への体験がまた始まりました。