私の周りの特別支援教育
(『障害児を普通学校へ』2010.3・4.No284 投稿
                                 松森俊尚(大阪 小学校教員)
校内研修会で
 大阪府寝屋川市の多くの学校では、こんな校内研修会が進行している。テーマは特別支援教育、講師は市教委・支援教育巡回指導員。
―「脳科学、大脳生理学によると、子どもの発達は非定型発達と定型発達の2種類に分類される。非定型発達には次の9つの特性がある。定型発達の特性はこの反対だと考えてよい」と言いながら並べていく。「・自分の思いを中心に一人で生きている。・一般の常識や、ルールよりも、自分の思いの方が上位にある。・0か100かの考え。…」、教師たちは聞きながら日頃の教室を想像し、あの子・この子の顔を浮かべる、「・聴覚、視覚情報共に、頭の中でまとめるのが苦手。だから、長い話が聞けない、読んで学びにくい。状況把握が悪い。人の表情が読みにくい、たくさん覚えられない」、聞けば聞くほど何人かの子どもと重なってくる。話はこれでもかとさらに続く、「・・・部分に反応する、複合運動が苦手」、ますます重なってくる、そして「・人と違うことをしたい。・感覚が少しちがう。・結果としてコミュニケーションや社会性の独自性」と締めくくられると、もう○○君そのものになってしまう。「そうか○○君が教室を飛び出すのは、非定型発達の脳を持っているためなのか。(或いは)私の責任ではなかったのだ。」そうひとりごちているようにも見えてくる。
 丁寧なことに、ひとつひとつの特長に対して対応策が示されることになる。「・掲示物、装飾などが、気が散らないように工夫しているか。・先生のものを勝手にさわらせていないか。・始まりの礼をきちんとやらせきれているか。・1回の指示は短いか。・指示は肯定的表現を使っているか。・終わりの礼をきちんとやらせきれているか。・授業中の声に、トーンの変化や緩急、強弱などがあるか。・板書の量は適切か、大事なところが目立っているか(色分けやアンダーラインなど)…」実に37項目のチェックリストが表にされていて、1点〜4点までの自己採点をするようになっている。
 寝屋川市では、これを「ユニバーサルデザインの授業作り」と称して、「非定型発達の子どもにはなくてはならない授業であり、定型発達の子どもにはあったら便利な授業」として市内全ての小・中学校で研修し、実践することを求めている。
しかしこれは寝屋川市だけの話ではない。さすがに「市の教育方針」とまで言い切る自治体は(今のところ)私は寝屋川市以外からは耳にしないが、大阪府内の数多くの学校で同様な特別支援教育の研修会が持たれたり、ほとんど同じ文言の「特性」や、「チェックリスト」が使われて、特別支援教育の実践が取り組まれている。中にはそれが学校を挙げた特別支援教育の方針となっているところも増えてきている。
専門性への幻想
 当然「非定型発達と思しき子どもたち」に対して、「支援」の手が差し伸べられることになる。特徴的なのは、専門家に任されるところにある。スクールカウンセラー(医師)や、教育相談員(カウンセリングの資格を持つ)が、別室で、子どもと個人面談をしたり、保護者と教育相談をすることになる。また、巡回指導員が発達診断を行い、病院も紹介する。「ADHD、LD、アスペルガー」など診断名がつけられる子どもたちも出てくる。私の知るカウンセラーや相談員は個人的に信頼を置く人たちである。真剣に子どもや保護者に寄り添いながら、子ども達のためにとカウンセリングに当たっている。しかし、友達から抜き出されて、別室で、専門的なカウンセリングを受けるというその制度化した道筋そのものが、支援学級へと直線的につながっている。障害名がなくても、保護者が入級を希望する場合も生まれてくる。
 私は脳科学という領域について全くの門外漢であるけれど、前述の「非定型発達の子どもの9つの特性」が最先端の脳科学・大脳生理学から導き出されたものであるという、そもそもの前提がにわかには信じがたい。むしろ、日常の教育活動の中で、教師が「困らされている」具体を並べ上げ、それを9つのパターンに分類して、その後で「科学」の衣装を纏わせた単純なトリックに過ぎないように思われてならない。だから教師の誰もが思い当たって当然なのだ。おまけに科学の権威を付与することによって納得させられることになる。
 教師の側の問題も深刻である。余裕がないのだ。「特性」や「チェックリスト」に当てはめて分類しなければ、子どものことを理解できないと思い込んで疑わないほどに、子どもと付き合い、保護者と話し合うための時間的余裕も、気持ちのゆとりも持てない。学級経営や授業の場は、確かに荒れて混乱していると言わざるを得ない現実がある。時間をかけず、苦労をせずに、できるだけ手っ取り早く、目の前で跳梁跋扈する子どもたちのことを、「なぜなのか」「どうすればよいのか」知り、理解したいという切実な欲求が、「特性」や「チェックリスト」を求め下支えしている。いやそれを生み出した原因でもある。だから教師は抵抗を覚えない。むしろ驚くべきは、あまりに多くの教師が自分の思いを重ねて違和感を覚えない実態そのものにある。現在の崩壊寸前の瀬戸際に立つ学校の姿を映し出しているのではないかと、私には思えてくる。
頑迷なる日本の能力主義神話
 日本の頑迷なる能力主義神話がある。「ゆとり教育」を口にすると、必ず「学力低下論」のかまびすしい合唱が湧き起こる。学校5日制が本格実施となったその日に、テレビでは土曜日に勉強する塾を映し出したり、補習を行う中学校を紹介するといった具合だ。大学受験では、共通1次試験・センター試験を導入して、国公立私学の全国の大学を1番から最下位までを序列化する制度がすでに行われ、貫徹されようとしている。大学進学率から作られる高校のランク付け、高校進学率からつけられる中学のランク、小学校のランク付け、はては幼稚園保育園にいたるまでの序列化へと拍車がかかっている。さらにそれを取り巻く塾の序列化にまで必然的につながって行く。教育機関の序列化は、その構成員である学生・生徒・児童の序列化・順位付けに対応させられることになる。あるいは、全ての国民を能力主義の一元的な価値の下に序列化しようとする意図が、この国には存在し続けているのではないかと思えてしまう。
 能力主義・成果主義・競争主義の教育と対峙してきたのは、「特殊教育」の名の下に分離され、排除されてきた障害者であった。教室に一緒に「いる」ことによって、その存在自身が能力の多様性を問い、教育、学習のあり方を根源から問うことになった。しかし、特別支援教育が施行されて以後、障害児教育は能力主義と対峙するものではなく、見事にその枠組みの中にすっぽりと組み込まれてしまったかのようである。別の言い方をすれば「包摂」されてしまった。「発達障害」という新たな概念を橋渡しにして。文部科学省が、特別支援教育を日本型インクルーシヴ教育(包摂する教育)と言うのは、あながち言いくるめているだけではなく、ホンネを垣間見せている表現であるのかもしれない。
 特別支援教育は、能力主義の教育観に立った「障害児教育」であると思う。「よくなる」「改善する」「のびる」「できる」「よりよく発達する」などといった言葉が支援教育の中で交わされるようになり、そのための専門的知識、方法、体系的プログラムを、教師も保護者も懸命に求めるようになる。取り組めば取り組むほど、専門性が求められ、それは支援学級や支援学校に対する過剰な期待へとつながり、現在の在籍数の急増をもたらしているのではないだろうか。
能力主義神話は超えられるか
 本誌No.281号で古川清治さんが提起されていた課題は、いつになってもやっぱり大きい―私の知る限り、昔も今も共生・教育派(?)から聞こえてくるのは、「『同一時・空間、同一教材による授業』だけが共生を可能にする」という声だけです。でもこれは実践的に言えば大昔、障害児を排除した日本中の教室で行われていた「画一的な一斉授業」と、どこがどう違うのでしょうか。―
 能力主義は超えられるか、或いは反能力主義の授業・学習はつくれるのかと問われれば、私は「YES」と答える。教育の現場でも、研究の場でも、保護者・地域も巻き込みながら、教科の特性を研究し、自主教材や教具を工夫したりつくったり、授業を開発したり、教育論をたたかわせたりしながら、決して「画一的な一斉授業」ではない取り組みを試行錯誤の中で、時にはもがきながらもつくり出してきたのではなかったか。民間教育運動や解放教育運動の歴史もある。諸先輩たちがこれまで、あまたの実践を生み出し、取り組み、継承もしてきた。現在も全国各地で、「共に学び、共に生きる」授業・学習が取り組まれている。
 しかし一方で、明治の学制発布以来100年の時を超え、児童生徒一人1台のパソコンが備えられ、電子黒板が教室に据えられる現在に至るまで、「画一的な一斉授業」は連綿として続き、今も全国の学校・教室で行われているという厳然たる事実がある。それを支える保護者や地域の根強い声もある。私が能力主義「神話」と呼ぶ所以である。
 能力主義神話を覆すのは学校教育ではない。「私たちはどのような社会の仕組みや国のあり方を求めるのか」という政治や経済、文化にまつわる課題の延長にあるのだと思う。政権交代の実現は、変わることへの期待と可能性がまだ残っているのだということを示してくれたと、私は考えている。「障がい者制度改革推進本部・会議」が発足し、その委員の過半数が障害当事者で構成されることになった。障害者問題や、教育の課題に限らず、このように具体的な法律や、制度、政策として議論し、一つひとつを実現していく中で、或いは「神話」は崩れていくのかもしれない。
 かくして私は、「授業は教えるためにするのではない、子どもを育てるために取り組むのだ」とブツブツと念仏のように繰り返し唱えながら、「子どもは関わりの中で学び、かかわりの中で育つ」と、力ない声で、それでも近くの者には聞こえるくらいの大きさで話しながら、ときどき、ほんの少しだけ、「画一的な一斉授業」ではない学習を子どもたちと取り組みながら日々過ごしている。