はじめに
昨年の10月27日、宮崎隆太郎さんが亡くなられました。宮崎さんは、『学校ぐるみの障害児教育―枚方開成小学校の場合』(ミネルバ書房)など多数の書物を出版され、枚方・大阪にとどまらず全国の障害児教育に影響を与えました。子供問題研究会発行の『ゆきわたり』に、篠原睦治さんと、関山域子さん、林隆造さんが追悼文を寄せられています。特に1980年代に「宮崎・山尾論争」と呼ばれて話題を呼んだ、「共に学ぶ」ことをめぐる激しいまでの論争は、インクルーシブ教育に取り組もうとする現在の私たちに、決して色褪せない具体的で重要な課題を今も提起しています。「資料集」から一読ください。
(管理人 松森)

宮崎隆太郎さんを思い出して

                               林 隆造

先月号の関山域子さんの一文で、あの宮崎隆太郎さんの早すぎる逝去を知った。なにか大事なものをなくした気持ちだ。はっきりからだの一部がなくなったという感覚でもない。力がなくなったというのともちがう。でも確実にわたしからなにかがなくなった。

わたしがいまこんなことを書いているのも、毎号のように身辺の瑣事を書き連ねていられるのも、もとはといえば宮崎さんに引っ張ってもらったおかげである。篠原さんが触れておられる「山尾―宮崎論争」の拡大に、宮崎さんから一枚くわわるよう声をかけてもらったのだ。

それまでは篠原睦治というこの世界の「ラジカルな理論家」(当時の認識)しか知らなかった。当時のわたしはといえば、京都市の教育当局から「養護学校行きが適正」とされた息子の隆正が校区の小学校の普通学級ですごすのを後押しするのに精いっぱいで、遠方でのさまざまな活動のことはほとんど知らなかった。そこへ篠原さんから大量の「ゆきわたり」がおくられてきた。それではじめて子供問題研究会という活動を知った。そこに載っている論争関係のむずかしい文章を読むのに苦労した。とてもそれらを理解できたとはいえないままに、自分の精いっぱいの体験とその感想とを書き送った。

それから1年後(だったとぼんやり記憶している)、また宮崎さんから「この春、子問研で討論集会があって、話しにいかんならんのやけど、来てくれませんか」と電話があった。「ようわかってもおらへんし、どうもねえ」と尻込みしたような気がする。「べつに肩持ってくれいうのとちがうし、好きなように話してくれたらええのや」とだめをおされて、はるばる上京して春の討論集会に参加したように記憶する。そして大勢の参加者のまえで、精いっぱいの話をたんたんとした。その内容がどんなものだったか、いまではなんの記憶もない。一方、その午後から話をする宮崎隆太郎さんと、相手方の山尾謙二さんがいずれも真剣なものごしで準備されている姿が記憶に鮮明である。(あれぐらい真剣にとりくまんとあかんのやな)とおもった。

いま双方の趣旨をあえて要約すると、山尾さんは(教師は生徒を)「かまうな」であり、一方宮崎さんは(教師は生徒を)「ほうっとくな」だった。わたしはその中間で「変にかまわないで、適切にかまえ」と感じていたような記憶がある。実際にそういう趣旨を発言したのかどうか、帰りの汽車で「きょうはだいぶん肩持ってくれはった」といって、宮崎さんが缶ビールをおごってくれた。

その後の宮崎さんとの主として文章上でのつきあいでは、年々教師への視線が厳しくなっていったわたしは、「ややかまいすぎのきらいがみえる」と教師としての宮崎さんを批評する機会がふえていった気がする。一方、隆正の学校での生活では、中学校の教師たちがあまりにみごとにほうっておいてくれたのを、「なにかかまいかたがあるやろ」と怒って抗議したりしていた。

宮崎さんは「異端五行詩『子ども』」(先月号)に

 

子どもや親と

ガチンコでぶつかる

そんな教員がいなくなり

 

だから学校には来てね

と楽しい学校に変えようとしなかった

その罪は大きい

と書いている。

「ガチンコでぶつかる」教員ってどんな教員だろう。それは「教員」なんだろうか。もはや「教員」の上着を脱ぎ捨てているのではないのだろうか。

「楽しい学校にしなかった」のはどんな「教員」だったのか。それは「教員」の罪なんだろうか。ここに学校のただなかにいる宮崎さんの苦悩がみえる気がする。いや教育という結界のなかで果敢にたたかっているすがたかもしれない。

またこのようなわたしの批評は客観的・外部的すぎるような気もする。学校での現象をみるとき、どうしても教育という結界が内外を隔てているように感じる。教育は知識のかたまりを冷凍保存している業務用の冷凍室のようにみえる。外からでは扉が厳重でみえないし、内にはいりこんでしまうと、あまりの寒さに身がかたまってしまって、冷凍された知識の中身がよくみえないのではないか。

こうなれば、知識の冷凍保存も、その施設である業務用の冷凍室も、ぜんぶこわしてしまったらいいというのが、宮崎さんとのつきあいや、そのほかすべての関係をとおして到達したわたしの構想である。そのイメージはまだよくみえないが、なんだかあの福島第一原発の破壊されたすがたに似ているのではないだろうか。でもその始末のしかたはおおいに異なる。全然無用の原発は一日もはやく無害なように、慎重になくさなければならない。一方教育の冷凍室は解体しても、そこには生徒と教師がいる。このように規定された人間のしばりを解き放たなければならない。冷凍された知識も解凍してなまものにもどさなければならない。それらを全部これからとりかからなければならない。

宮崎隆太郎さんからいただいたさまざまな好意や恩をあらためて思い起こしながら書きだしたら、いつものくせで我田引水になってしまった。それでも「林さんらしいわ」と寛容にみてもらえそうにおもう。