追悼―宮崎隆太郎さん

                          関山 域子(枚方市)

 

 

[厚かましくも、まずは編者から―

このたびの関山さんのお便りで、宮崎さんが亡くなったことをうかがった。まずは、今は亡き宮崎さんに追悼の気持ちを表させて頂く。

 ご存知ない方のために、宮崎さんと、子問研・こもん軒のご縁を短く紹介して、皆さんと一緒に、宮崎さんを偲びたいと思います。

 子問研は、八一年春から八七年春まで、池袋の、十数畳ほどの小さなマンションにあったが、ここに、八二年十一月、宮崎さんたち三十人前後が訪ねて来られた。関山さんもおられた。都立八王子養護学校の二日間にわたる「実践報告会」に参加された後の土曜の午後だった。

 宮崎さんは、既に『学校ぐるみの障害児教育―枚方市開成小学校の場合』(ミネルヴァ書房)、『普通学級のなかの障害児―知恵おくれ、自閉症児の統合教育の試み』(三一書房)を出版されていた。山尾謙二さんやぼくなど、何人かは、これらを読んでいて、ぼくは、別の機会に、議論している。共鳴するところと違和感のあるところがあって、「改めて、ゆっくり語り合いましょう」と約束していたのだが、それは、このときに実現したことになる。

 山尾さんは、「宮崎隆太郎さんたちと語り合ったこと」を報告しながら、「ていねいな教育」「がんばる教師」などへの異論を述べている(八二年一二月号)。宮崎さんは、この報告に不快を表明されながらも、丁寧な再反論をされている。こうして、「宮崎・山尾論争」が、さまざまな人たちが書き合いながら重ねられていく。そして、八四年の「春討」第二日午前には、この論争を読みつつ、教員の立場、親の立場から「『共に学ぶ』ことの思い」を語りあっている。そして、午後、宮崎さんと山尾さんが「語り合おう『学校・先生・授業』のこと」と題して、発題している。このときの報告は、同年の六月号に載っている。

実は、ぼくは、手元の「ゆきわたり」をひっくり返しながら、取り急ぎ大枠だけの確認をしたのだが、とても読み切れていない。改めてていねいに読み直したいと思うが、宮崎さんが、真摯に、ぼくたちと向き合って、書きかつ話して下さったことを、いま、改めて感謝を込めて思い起している。

ここで、二つのエピソードを記したい。ある年の夏、宮崎さんは、十人ぐらいだったと思うが、若者を引き連れて、東京見物に来られた。まずは、営業中のこもん軒に立ち寄って下さった。そして、ぼくは、身の程知らずに、若者の街、原宿に案内している。そして、そこで夕食を共にした。もう一つ、関山さんは、「子問研・アメリカ大陸横断旅行」(一九九六年八月)に参加されたが、子問研の人間模様を肌身で体験したかったと言って下さった。宮崎さんが子問研と関山さんとの縁をつないで下さったのである。

 読者には、これから味読して頂きたいが、後掲の宮崎さんの、書道の言葉と五行詩を繰り返して読みながら、宮崎さんの生きし方、思い、考えが肌身に迫って来て、なつかしく有り難く思えてならないのである。重ねて、ご冥福をお祈りしたい。篠原睦治]

 

 

新年あけましておめでとうございます。

このたび篠原さんから「ゆきわたり」新年号に一筆どうぞ!という葉書が届きました。

「ゆきわたり」を長年送って頂いているとは言え、決して熱心に読んでいる訳でなく、むしろ「アメリカ大陸横断旅行」をご一緒させて頂いた御恩を感じその思いで継続していて、気に掛かるタイトルについて流し読みしているだけの横着な購読者で、申し訳ないです。そんな私でいいでしょうかと言う思いを持ちつつお引き受けしたのには、お伝えしたいことがあるからです。

 

宮崎隆太郎さんがお亡くなりになりました。

 

 去年の十月二七日の午後六時一分に、入院先の病院でご家族に見守られてお亡くなりになりました。享年七五歳でした。お知らせを受けたのは、四日後に、御長女さんからでした。葬儀は家族で済ませたとの事。

 突電の訃報に驚きましたが、そうだったのかあ……という思いもありました。去年の七月頃電話で宮崎さんと話しました。宮崎さんが「正真正銘の白血病になった」と言ってはったと、私の友人が伝えてくれたので、すぐに電話したのです。電話の向こうの宮崎さんは、少し、ハイで、早口で、しかしひとつひとつの言葉を確実に届けようという意気込みがビンビン伝わってきました。はじめは白血球が多すぎる時期があったが、それが低くなったこと。治療を色々してきたが、今は、白血病と診断され、効く薬がないので、月に半分は入院して、輸血を受けているんだ。だけど、普段は買い物もし、食事も作り、家族に食べさせているし、この前もTさん、Мさんと外でご飯を食べた。私が、じゃあ私もご一緒したいです、と言うと、ウン、そうしよう、と。

 その電話で、私は、輸血か…と、宮崎さんの声の調子が活気があっただけに、気になりました。夏から秋にかけて、私から思いつくまま葉書を三〜四回書いてお出ししました。

 私から出した葉書のひとつは、改修工事中の我が家で、本や衣類をどんどん処分している中で、岩波講座の『教育の方法・別巻』が目につき、扉を開くと、宮崎さんの自筆で、筆で、「関山域子様 同労の証しとして 宮崎隆太郎」と書いてあるのが、目にとび込みました。とっさに私は葉書を取りだし、「この本は処分しません。頂いたお気持ちを大事にします」と。

 しばらくして、宮崎さんから届いた葉書は、大阪市の中之島のビルで催される書道展の案内状でした。しっかりとした几帳面な字で、

「月の半分ぐらいは、入院しています。

 十月七日からまた入院です。

 おついでがあれば寄ってみてください。

 どうぞお元気で。」

 書道展の案内を頂いたのは初めてでした。第二三回一光書法展であると。観に行かないといけないという心境でした。中之島のホテルまで出掛けました。葉書には、「宮崎隆太郎」の名前と併記して、「光竜」と書いてありました。

 宮崎さんの作品は、縦長の掛け軸でした。

「大事にされていると実感できる子は

 自分もほかの人をも大切にする

            光竜 かく」

 他の方々は、漢詩や論語、禅の言葉、有名人の和歌や俳句から書をしたためておられましたが、宮崎さんは、「自作のことば」と題をつけておられました。

 文字は力強く、麟として美しかったです。

 後日、宮崎さんと親交の厚かった方から、書体についても、くねくねと書くのではなく、一文字一文字を自分なりに精いっぱい書くのが自分流だと言っておられたとお聞きし、納得しました。

 すべからく宮崎さんらしいと思いました。

 

 

「白血球が

人の半分以下だとか

それでも

ずうっと 

遊び人のままでいく                                              

光竜」

 

宮崎さんの訃報を「共に学ぶ」のメーリングリストで紹介させて頂いたら、地域情報誌『LIP』を編集し、枚方で五行詩の活動をしておられる豊高明枝さんが、宮崎さんが二〇一三年から投稿されていた五行詩の数々を紹介してくださいました。この二年間近くの宮崎さんをよく表現しておられると思いますので、ご家族のご了解を得て、いくつかを紹介させて頂きます。

(尚、/は、行を変えておられるところです。)

 

点滴のため/五日間連続で通院する

京の大文字山の麓の病院

奈良の近くからよく通うね

病院でほめてもらうのがうれしくて

 

完全に「主婦」やってるね

オバちゃんたちによく言われる

「主夫」だけどね

そやけど適当に手抜きしいや

とも言ってくれる

 

疲れから数日寝込んだら

やめて と言われた園の職員

出身校の就職担当は

訴えるな というだけ/くやしいね

 

「障害者」を傷つけていないか

彼らの気持ちをうけとめられているか

と悩むまじめヘルパーの研修会で

「障害者」に気をつかい過ぎないで

傷つけあうのも人間関係 と言ってしまう

 

「障害者」の自立をめざした日常生活

と言って煙たがられてきた

福祉にもたれかかるな

と言って今またそっぽを向かれている

より重度にされていく人が多いのに

 

診断名をつけたり

薬を出すことでなく

日常生活の中身ですよね

とわざわざ北陸から会いに来てくれた

小児科医がいた

 

(以下、二〇一四年四月、受け取る 『LIP』編集部)

 

準無菌室で/退屈などしてません

いろんな人が/手を尽くして

守ってくださる感じ

 

あと十年/なにもしなくていいから

と言ってくれる人たちの/顔が思い浮かぶ

輸血を受けながら

 

し残したるをさてうち置きたるは

おもしろく生き延ぶるわざなり

と徒然草

やり残したことがあっても

完璧でなくてもそれでいいのだ

 

退院の二日後に/思い焦がれた

神戸元町の赤萬の餃子と

龍鳳の肉ちまきと

観音屋のチーズケーキに突進

 

おかずを何種類か/準備しておくと

少しは家事をするようになった/息子が

よくやるねとほめてくれる

 

私の「友の会」のカードで/娘が

デパ地下で買い物したら

退院祝いだと

おはぎをもらって帰ってきた

 

気になるのなら/気にすればいいよ

だけどやらなければならないことは

きちんとやろうね

森田療法の思想に私も支えられてきた

 

 

“異端五行歌「子ども」二十首 光竜”より(関山抜粋)

 

抗ガン剤が増える/準無菌室で

なぜか/今どきの子どもの話が

増えていく

 

自分が/大事にされている

と実感できる子は/ほかの人をも

大切にする

 

大事にされている/という実感がないのに

生命の尊さや/相手の気持ちを考えろ

と説教されてもピンとこない

 

自分の思いこみだけで

子どもを調教する親や

指示された方針通りに

子どもと接する教員が

子どもを大切にするわけがない

 

変な子/発達障害じゃない?

特別な配慮 即排除

排除される人が増えて

世の中がおかしくなっていく

 

変なおとなはいっぱいいる

有名人にも政治家にも

高学歴の偉いさんにも/でも

子どもの未来は分からないはず

 

うちの子 落ち着かないの

勉強もしない

でも習字と料理教室には喜んで行っている 

そこで生活の基本や

ものごとの手順を学んでるんやで

 

子どもや親と

ガチンコでぶつかる

そんな教員がいなくなり

人を傷つけるだけの人間が/増えていく

 

子どもや親の言い分を/しっかり聞く

その後で教員の考えを

ていねいに伝えて また話を聞く

こんなやりとりが人間関係の基本

 

気軽に声をかける/笑顔を交わしあう

目で合図する

そんなやりとりの日常があれば

叱り叱られることも跡を残さない

 

やりとりができるのは

心に余裕があるから

学校から余裕を奪い取ったのは/もともと

やりとりができない人たち

 

無理して/学校に行かなくてもいいよ

と体よく学校から排除された人たちが

成人してからも/ずっとひきこもっている

 

学校は楽しいところ

どんなになってほしいか教えてよ

だから学校には来てね

と楽しい学校に変えようとしなかった

その罪は大きい

 

不登校は/心が壊れるのを防ぐ

自然な反応/とわかったように言う人は

学校を本気で変えようという志がない

 

五年生まで不登校で

ぶつかりあって学校に通うようになり

中学高校は皆勤で

大学をでて公務員になった

その人が暑中見舞いをくれた

 

教員同士も/ぶつかりあった

泣かれたりうらまれたりもした

そんなやりとりができた時代は

学校も教員も少しずつ変化した

 

かつて養護学校からも

拒否された「障害児」が

校区の学校や普通学級で

学べるようになるまでの

教員の激しいぶつかりあい

 

動く折り紙をいくつか

看護士さんに渡したら

うちの子どもは喜んだけど

認知症の患者さんには

無視されたよ