橋下徹大阪府知事への「公開質問状」の経過と、今
「共に学び、共に生きる教育」日本一の大阪に!ネットワーク 事務局                       松森俊尚
 いかにも早い決断と行動だった
 1月20日に大阪府内の障害者団体を中心に122団体の連名で、橋下徹知事宛“障害のある子も、ない子も「共に学び、共に生きる教育」をもっと充実発展させるための公開質問状”を提出し、2月20日大阪府教育委員会からその「回答書」が届きました。 そもそもの発端は、昨年6月に“知的障害者を普通高校へ北河内連絡会”の定例会をいつものように十人あまりで開いていたときでした。話題が、2月に登場した橋下徹知事が福祉や文化、暮らしの領域も含め、あらゆる分野の予算の削減、凍結をかまびすしく叫び、新聞やテレビのマスメディアを毎日にぎわしていたことに及び、「そのうち教育にも口出ししてくるのではないか」と、一人の口から漏れ出たことに始まります。
 「お金のことも大事だけれど、大阪の教育が壊されてしまうのではないか」「共に学び、共に生きる教育が、競争主義の教育に変えられてしまうのでは」との不安や危機感が参加者の中に広がりました。その場で、「共に学び、共に生きる教育」を守り、さらに進めるために知事宛の要望を行うことを決め、賛同団体を募ることにしました。今思い返してみても、いかにも早い決断と行動であったと思います。

  私たちの取り組みと並行するように、橋下知事は「大阪維新プログラム」を発表し、「教育日本一をめざして」(この言葉を逆手にとって私たちのネットワークの名称に拝借した次第です)等、矢継ぎ早に教育に関する発言提言を繰り返すようになりました。習熟度別クラス、まなび舎事業(夜スペ大阪版)、一斉反復学習の強制、特色ある進学高校、全国学力テストの順位公開・・・等々、マスコミを活用し、時には周囲に罵詈雑言を撒き散らしながら、橋下流教育改革をスタートさせました。私たちが予想したとおり、否それ以上に能力主義、競争主義、成果主義の教育への転換を狙うものでした。
 何よりもこれまで学校現場の教職員や保護者、地域との連携によって取り組まれてきた大阪の教育、なかんずく障害児教育、同和教育、在日外国人教育等々、大阪の人権教育の思想と実践をどのように評価し、何を引きつぎ、何を改革しようとするのか、全く具体的な説明がなされないままに、当事者との十分な話し合いも持たず、性急に否定し、力づくででも変えようとする手法に危機感を感じ、反対しなければならないと思いました。

 続々と集まった賛同団体
 一方で私たちの呼びかけに応えて賛同団体が続々と集まりました。「40団体も集まれば」との予想に反し、1ヶ月あまりで100団体を超え、公開質問状提出時には障害者団体を中心に122団体が名を連ねることになりました。

 8月に第1弾となる「要望書」を大阪府教育委員会、府議会議長、知事宛に提出し、9月1日に府教委から「回答書」が届きました。「回答書」のあまりに形式的な言葉と、何よりも橋下知事本人からの答えがもらえなかったので、改めて「公開質問状」という形をとって知事宛に届けることになりました。 ここから2009年1月20日の「公開質問状」手交まで新たな5ヶ月間の取り組みが始まりまることになりました。▼記者会見をして直接知事に訴える、▼「共に学び、共に生きる教育」で育った障害者の先輩たちに参加と発言を呼びかける、▼一人でも多くの府民に知らせる、という重点課題を作りました。メールマガジンとメーリングリストを立ち上げたところ、多い日には20通を越えるメールがやり取りされる活況の中で、「質問状」の文案が作られ、意見を交換しながら推敲を繰り返して「公開質問状」が出来上がりました。会議で作戦が練られます。発言者の意見をパンフレットに作りマスコミ対策にも知恵を絞ります。(公開質問状とパンフレットは今回の取り組みで生まれた財産であると思っています。)
 府庁内で手交と記者会見
 1月20日午後3時、府庁内の待合室に続々と障害者、保護者、支援者が集まってきます。予想以上の人数に緊張と期待が膨らんできます。車椅子やストレッチャーを連ね、府庁内をぞろぞろと移動する集団に、庁内の人たちの目が集まり、周囲の雰囲気が変化していくのを感じます。庁内を移動することからすでに私たちの表現、主張が始まっていたのです。午後3時30分1階会議室で46名参加の中「公開質問状」を提出。府からは「文書回答」の約束と、「今後とも話し合いの場を作っていく」ことの答えがありました。

 午後4時から、府政記者クラブ会見室で記者会見を行いました。全く未経験の者ばかりで戸惑いが先行する上に、何の準備もされていなくて、部屋の電気を点灯することから始まり、椅子を運び出して会見場を自分たちでしつらえ、各社の部屋に「今から会見を始めますので来てください」と声を掛けて回りました。46名の私たちが5人の新聞記者に語りかける記者会見が始まりました。
 小学3年生の蓮君は、大好きな学校を早退して参加してくれました。北口さんと上田さんは、仲間と一緒に過ごし、学んだ経験を語りました。「障害をもつ仲間と共に歩む豊中若者の集い」の洋子さんは、「相手に障害があるからじゃなく、仲間だから支援する」と話しました。折田涼さんは、「私は人工呼吸器がはずれるようなことがあれば数分で命がなくなるかもしれない状況で生きています。…共に支えあい共に生きる社会がなければ私は生きていくことができません。でも、それは私だけではなく、誰でも同じなのではないでしょうか。」と、瞼や眉間を動かして合図を送る方法で作ったメッセージを発信しました。みんなが新聞記者のペンを通して、「共に学び、共に生きる教育」の意味と、その大切さを一人でも多くの府民に知ってもらおうと、懸命に訴えました。
 取り上げてくれたのは記者会見の場に来てくれた5社の内毎日新聞だけ、しかも私たちの費やした時間や労力、何よりも噴き出さんばかりに膨れ上がっていた思い入れからすれば、決して大きな扱いの記事とは言えません。しかし、「競争主義に強い懸念」、短い見出しが正鵠を射て、私たちネットワークの出発を記念する原点に相応しい記事にも見えてきたものでした。最後に庁内正面玄関ロビーで守衛さんに撮っていただいた記念写真が満面の笑顔がこぼれているように、参加者の誰もが元気の出る取り組みになりました。
 形式的な回答書
 2
20日に大阪府教育委員会からの「回答書」が届きました。一読して感じることは、耳障りのよい言葉の連なりで、これまでの「障がい教育」の府の説明を踏襲するものばかりで、一歩もその域から出ていないということです。すばらしい理念は書かれていても、私たちの危惧していること、だから聞きたいと思っている具体的質問に対しては答えが返されていないのです。今回の「回答」は、いま大阪で起きようとしている教育をめぐる事態の本質にはいささかも触れられていないと言わざるを得ません。何よりも橋下知事自身の言葉が一切ありません。強圧的な教育行政への介入との批判に全く耳を向けず、マスコミを通して声高に発言を続けた知事であるのに、私たちの質問に対しては一言も「自分の言葉」を返してはくれませんでした。私たちが時間をかけ、意見を交流しながら作り上げ、障害者自らの声を何とか知事に届けようと、質問状の手交、記者会見を取り組んだにもかかわらず、或いは知事は目を通すことすらもしていないのではないかと思ってしまいます。
 これから、大阪府教育委員会と一つ一つの質問に対して具体的な回答をもらうために、息の長い話し合いを続けて行こうと思っています。現在も活発に交流が続いているメーリングリストに、大阪の多くの学校で「友だちといっしょに勉強したい、友達といっしょに過ごしたい」「ひとりの子どもとしてみてほしい」というあたりまえのことを求める保護者が、教職員との間で、或いは支援学級在籍の保護者の中で孤立を強いられる実態が報告されています。むしろその数は特別支援教育が実施されて以降、年々増えているのではないかと思われます。具体の問題は山積みしていると言わずにおれません。
 すでに蔓延する能力主義と向き合う
 公開質問状の取り組みを通して実感することがあります。橋下知事が非常識なほどに「率直な」言動を繰り返すので、反発や危機感を覚え、それをバネにするようにして私たちの行動が生まれてきたとも言えるのですが、能力主義、競争主義、成果主義、自己責任論は、すでに社会に蔓延し、教育の世界にも進行し続けていたのだと思います。たとえ橋下知事にならなくても、「共に学び、共に生きる教育」が修正され、方向転換を始めていたにちがいないと思うのです。

 「明治の学制発布以来の大改革」と国が大宣伝の鳴り物入りで実施した教育改革も、06年の教育基本法「改悪」で、何一つ国民的論議も起こさず、具体的な成果を残すこともなく、当の国家の側の一方的な宣言によって幕を閉じることになったと僕は思っています。しかし今、大阪では橋下流教育改革への危機感からではあるけれど、もう一度教育論議が巻き起こる機運が生まれています。「共に学び、共に生きる教育」を掲げて府民の間に論議を起こして行きたいと思っています。障害児・者が学びやすい学校は、誰もが学びやすい学校です。障害児・者が暮らしやすい社会は、誰もが暮らしやすい社会なのですから。
公開質問状、パンフレット、回答書は、ホームページ「餓鬼者」(がきもん)http://www15.ocn.ne.jp/~gakimon/ をご覧ください。